【死因は病気:肺炎】中村典正さん死去(作曲家)プロフィールと代表曲について


こんにちは!編集部の桜田です!

作曲家の中村典正氏(なかむら・てんしょう)16日午前6時21分、肺炎のため東京都内の病院で死去しました。

主に歌謡曲や演歌の作曲で有名となり、北島三郎さんの「仁義」や藤あや子さんの「ここる酒」など大物歌手の作曲も中村さんの作詞曲です。

享年83歳でした。

デイリー新潮では次の通りに報じています。

山口県周南市出身。通夜と告別式は、密葬として既に営まれた。後日、「お別れの会」を予定している。

中村さんはコロムビア歌謡コンクール徳山大会に入賞し、歌手を志して上京。全国大会にも入賞した。

「喜びも悲しみも幾歳月」のヒットで知られる歌手の故若山彰さんの付き人をへて、故美空ひばりさんの「お祭りマンボ」などを手掛けた作曲家の故原六郎さんに師事した後、編曲家となった。

その後、作曲家を目指し、1963年に北島三郎の「田舎へ帰れよ」で作曲家デビュー。2作目となる北島の「仁義」が大ヒット。その後、鳥羽一郎、藤あや子、大川栄策、冠二郎らに曲を提供した。また、三山を昨年まで4年連続でNHK紅白歌合戦に出場する人気歌手に育て上げた。

 妻は歌手の松前ひろ子。次女の洋子さんは2012年3月に三山と結婚、一男一女をもうけている。


作曲家の中村典正さん死去、死因は肺炎

中村典正さんは16日午前6時21分に肺炎のため死去されました。

死因は肺炎と伝えられていますが、病院でのことなのか、自宅でのことなのか詳細は伝えられていません。

中村さんの死去にあたり、お通夜と告別式は密葬で行われたとのことです。

中村典正さんが作曲家になるまでのプロフィール

中村典正さんは山口県出身で、地元で開催された「コロンビア歌謡コンクール」徳山大会で入賞したことをきっかけに、歌手を志望して上京しました。

1958年には「コロンビア歌謡コンクール」全国大会で入賞を果たし、若山彰さんの付き人となり、原六朗に師事した後にかねてから希望していた歌手ではなく、作曲家の道に進むことを決意されたようです。

中村典正名義でのJASRAC登録曲数は現在、339曲にもなります。

中村典正さんの代表曲について

中村典正さんの代表曲は、北島三郎の「三郎太鼓」のB面に収録された「田舎へ帰れよ」で、本名の中村貞夫として作曲家としてデビューしました。

1969年には、同じく北島三郎の「仁義」がシングルA面となりヒット。

この時点では中村千里として活動していたようです。

しばらくして、中村典正と改名をしています。

そして日本クラウンの歌手の作曲を手がけ、鳥羽一郎の「男の港」などのヒットを生みました。

ネットの反応

今回の中村典正さんの訃報をうけて、ネット上ではどんなことがつぶやかれているのでしょうか?

亡くなられたんですね。残念です。お目に掛かった事は、在りませんが、いつもコンサートで、パパがパパがっておっしゃってたので、凄く仲が良いんだろうなぁと思ってました。心よりご冥福をお祈りします。きっと天国から三山さんの事ご家族の事を見守って下さると思いますよ。ご家族の皆さん元気出して下さいね元気で居てる事が供養になるでしょ…もっと見る

他の記事にありますが、この方、山口ひろしさんとかの名前を使ったんでしたね。
藤あや子さんのH5年「むらさき雨情」やH7年「み・れ・ん」などもよく聴かせていただきました。
2元号が遠くなります..心から安らかに。

誠、親子船、萩みれん、酔待ち酒場、ダンチョネ港町、女に生まれて…
昭和が遠ざかっていきますね…。
心よりお悔やみ申し上げます。

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