【死因:くも膜下出血】ジャニー喜多川死去87歳若い頃の写真,経歴と家族や遺産相続ギネスにも!


こんにちは!編集部の桜田です!

日本のジャニーズの産みの親、ジャニーズ事務所社長のジャニーさんこと喜多川拡(ひろむ)さんが7月9日午後4時47分、都内の病院で死去しました。

ジャニーズ事務所の発表では次の通りに報じています。

2019年6月18日午前11時30分頃、自宅におきまして体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところ意識を失い、救急搬送されました。搬送後、集中治療室におきまして懸命な救命措置を行っていただいたことにより、一般病棟に移ることができましたため、病院のご協力もあり、ジャニーは、自身にとって子供のような存在でございますタレントやJr.との面会を果たすことができました。ジャニーがタレント達と過ごした病院での日々は、かけがえのない時間となりました。

新旧、様々な楽曲の流れる病室におきまして、年長のタレントからJr.までが同じ空間でジャニーとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていきました。片時もジャニーが寂しい思いをしないよう、仕事の合間を縫ってタレント達は入れ替わり立ち替わり病室を訪れました。ジャニーの好物を皆で賑やかに食べることが日課となり、その光景と匂いからまるで稽古場にいるかのような感覚を覚え、皆、懐かしい記憶がよみがえりました。

ときに危険な状態に陥ることもございましたが、タレント達が呼びかけ、体を摩るたびに危機を脱することができました。タレント達と過ごすことでジャニーの容体が一時的に回復するという奇跡的な出来事を繰り返し目の当たりにし、改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供達との絆の強さを感じました。そして、最愛の子供達の愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47 分、ジャニー喜多川は、人生の幕を下ろしました。


喜多川拡(ひろむ)さんが死去、死因は

6月18日自宅で倒れて入院してはじめ集中治療室で救命措置をとっていたようですが、一時回復し一般病棟に移り変わるお見舞いにくるタレントやJr.との面会を果たしていたようですね。自身の病室内には新旧ジャニーズの曲をかけ様々な年代のジャニーズと思い出を語りながら最後は過ごしたようです。入院中何度か危険な状態があったようえすが、お見舞いにくるジャニーズの励ましで容体が回復したりもしていたようですね。

最愛のタレントたちに見守られながら2019年7月9日午後4時47 分に死去しました。
死因は入院の原因となった病気は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血です。

葬儀は家族葬で行う予定としています。

夜・告別式につきましては、ジャニーの子供でございますタレント達とJr.のみで執り行う家族葬とさせていただきますので、何卒ご理解賜りたく存じます。

ジャニー喜多川さんの若い頃の写真

ジャニーさん若い頃

ジャニー喜多川さんの経歴が凄い

ジャニーさんこと、ジャニー喜多川さんはアメリカのお生まれのようです。
ご自身の経歴がすごいです。
戦争中や戦後もご出身のアメリカに関わって生活されていたようですので、考え方など日本とはまったく違たのかもしれませんね。

ジャニーズを立ち上げる前までの経歴

●1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスで生まれる
●1933年(昭和8年)日本へ渡り大阪で生活中に、母川栄子がなくなる
●第二次世界大戦中、和歌山へ疎開
●戦後1947年(昭和22年)に子供たち3人でアメリカロサンゼルスに帰国現地の高校へ入学。
●姉と同じ、ロサンゼルス・シティー・カレッジに進学
●1950年(昭和25年)、美空ひばりがアメリカ公演を行った際、マネージメントに関わる。日本進出のきっかけ
●1952年(昭和27年)に再来日。駐日アメリカ合衆国大使館に勤務。
●1955年(昭和30年)上智大学在学中にバンドを結成、以降日本に永住。

ジャニーズ事務所立ち上げ

●1960年代初頭、ジャニーは自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、本人のニックネーム「ジャニー (Johnny)」からとって「ジャニーズ」と名付けられた。
●1962年(昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する。
●1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業。当初は渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていた。
●1975年(昭和50年)1月、正式に株式会社として出発。

その後男性アイドルグループの事務所として成功

1980年代に突入して事務所黎明期の「フォーリーブス」「郷ひろみ」らに始まり、「たのきんトリオ」・「シブがき隊」・「少年隊」などの3人組アイドルグループを成功させた。

1980年代には、7人組メンバーによるユニット形式アイドルグループ「光GENJI」をデビュー。光GENJIはローラースケートで踊りながらアクロバティックなライブを行うという、これまでにないアイドルグループとして注目され大きな成功を納めたものの、活動期間は8年とアイドルとしてはやや短命に終わった。

1990年代には、「SMAP」を個性的なマルチタレント型グループとして、ライブだけでなくバラエティー番組でも活躍できるアイドルとして、光GENJIの路線からさらにグループ性を発展させ、かつ短命に終わらない持続性をもったグループとして、これまでにない大きな成功を勝ち取った。

次にバンド形式の「TOKIO」

年齢差のある個性派集団の「V6」

関西系の二人組ユニット「KinKi Kids」

王道的アイドルを目指す「嵐」らが次々にデビュー

さらに2000年代には「タッキー&翼」

ワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューした「NEWS」

「関ジャニ∞」

ジャニーズの異色グループ「KAT-TUN」

メンバー全員が平成生まれの「Hey! Say! JUMP」がデビュー

グループが多く誕生した。

ジャニー喜多川さんの家族

父:喜多川諦道(日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶)
母:喜多川川栄子(戦後昭和8年喜多川一家は日本へ渡航し、大阪市で生活した。しかし間もなくして母親が死去)
姉:メリー喜多川
姪:藤島ジュリー景子(メリー喜多川の娘)

兄:喜多川真一(NASAでアポロの設計もしていた科学者だったが、1980年代に50代半ばで死去)

ジャニー喜多川さんの遺産相続

1962年の創業から57年。ジャニーズ事務所は芸能界で群を抜く存在だ。ファンクラブの総会員数は約500万人といわれ、年会費だけで200億円以上を稼ぎ出すとされる。これに音楽作品の売り上げやコンサートのチケット代、グッズの売り上げ、CM出演料などを加えると、グループ全体で年間収入は1000億円を軽く超える。

 資産もばく大だ。関連会社や個人名義で東京の赤坂、麻布、渋谷などの一等地にビルやスタジオ、劇場、駐車場などの不動産を所有。その数は10件以上で、推定額は計500億円。これに海外の銀行に預けた貯金などを合わせた総資産は計1000億円超といわれる。  これだけの帝国を、メリー藤島副社長との二人三脚で築き上げたジャニーさん。最後の公示となった04年度の高額納税者番付によると、当時の年収は推定約9億円。ジャニーさんを古くから知る芸能関係者は「ジャニーさんはお金に無頓着だったので、どれぐらい持っているか本人も分かっていなかっただろう」と話すが、遺産の推定額は200億円超。個人名義で所有する不動産を合わせると、300億円に達するとの見方もある。

 生前、その使い道について「タレントの育成や引退後の生活費などのために使いたい」と話していたといい、同関係者は「私利私欲のない人だったから、自分が育ててきた子供のためにという思いがあったのは間違いない。アメリカ人的な感覚を持っていたから、細かいところまできっちりと遺言書に残しているはず」と指摘する。巨額の遺産だけに、その内容が注目される。

 事務所の今後はどうなるのか。新社長には、姉のメリー副社長ではなく、その長女でジャニーさんのめいにあたる藤島ジュリー景子副社長(52)が就任する見通し。メリー副社長はその補佐をするとみられる。

 ジャニーズでは近年、タレントの独立や不祥事、世間を驚かすような出来事が頻発。今年1月には嵐が来年末で活動休止することを発表するなど、激震が続く。さらに精神的支柱だったジャニーさんを失い、タレントの間に動揺が広がる可能性がある。関係者は「ジュリーさんが、あれだけの大所帯のタレントたちをどうまとめていくのか。彼女を支える滝沢の存在は大きい。ジャニーさんが緊急搬送されてから3週間。この期間にそれぞれが抱えた不安を信頼という絆の強さへと変えることができたのか。その答えは1年後には見えてくる」と話した。

ジャニー喜多川のギネス記録

シングル1位獲得作品数は実に439作品にのぼり、総売上枚数は1億4821万枚。オリコン調べによるジャニーズ事務所作品の主な記録から、ジャニーさんの功績を振り返る。

ジャニーズ事務所によるシングル作品としては、郷ひろみ「よろしく哀愁」が1974年10月28日付で1位を獲得以降、最新2019年7月1日付の山下智久「CHANGE」まで全439作品が1位を獲得。シングル1位を獲得した全439作品の累積総売上枚数は1億4821万276枚。

また、シングル1位獲得アーティストでは、郷ひろみ「よろしく哀愁」が1974年10月28日付で1位を獲得以降、2019年5月27日付の亀梨和也「Rain」まで全47組のアーティストが1位を獲得している。

数々の記録により、2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として、2012年には「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてそれぞれギネス・ワールド・レコーズに認定されている。

ネットの反応


この報道を受けてSNSサイトではどのような反応が起こっているのでしょうか?

日本エンタメ全ての中でSMAPが最高のグループだと思うわ、歌は下手だけどほとんど生歌だし、バラエティの道を開拓したアイドルだし、ドラマやらもヒット連発、影響力もずば抜けてる、認知度もずば抜けてる、まさしく国民的グループ。ジャニーさんの最高傑作だったな。来年には嵐も終わるし退社勢も居るだろうしジャニーズは大変だな

ジャニーさんが飯島さんの才能を買って次期社長にしたいと思ったのはさすがだなと思う。でも結局それを良しとしないメリーさんとの確執が生まれ事務所の体制が二分され、それでも気の収まらないメリーさんが飯島さんを理不尽に叱責した結果飯島さんがSMAPと共に独立しようとした。そして紆余曲折あり結果SMAPを解散させてしまった。そこだけはジャニーさんにもどうする事も出来なかったのかな。それだけ社内におけるメリーさんの力が強かったって事なんだろうな。ご冥福をお祈りします。

時代を作った多くのタレントを作ったのがジャニーさん。ギネスが認めるほどの希代な凄腕のプロデューサーだったと思います。批判も多かったけど、歴史に残るアイドルを数多く育てたのもまた事実だったと思います。これほどのプロデューサーも今後はなかなか現れることもないでしょうが、ひとつの時代を築き上げた、歴史に残る人だったことは間違いないと思います

彼の性癖を知り、あの帝国を作り上げた事に納得したが、やはり多少の嫌悪感は拭えなかった。
次々と男性アイドルの将来の容姿まで見据えて売り出す才能は、彼だからこそ実現できた功績だったと思う。
ジャニー喜多川氏の感性は特別のものだった。
そんな特別の人がいなくなってこれからどうなるのか、興味深いです。
もちろん、準備はしっかりされているでしょうが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です